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C・H・ダラスとは

<米沢牛の恩人 C・H・ダラス> 『米沢牛に魅せられた青い目の教師』チャールズ・ヘンリー・ダラス 貿易商、外国語講師 1841(天保12年)~1894(明治27年)

憧れのジパングへ

C・H・ダラスは1841年ロンドンに生まれた。少年の頃から中国や日本に憧れて育った。そして1860年19才で夢叶え鉱物貿易商として上海に渡った。その3年後1863年に、現在の横浜中区にある「シルク通り」に残る、横浜市指定有形文化財「旧横浜居留地91番地」に事務所を構えた。ここでダラスは貿易商として、日本での第一歩を踏み出した。1866年には、フリーメーソンの日本で初の支部長に就任した。フリーメーソンとは、「自由な石工」という意味の職人の組織であったが、現在は、富と社会的地位を持つ人々が、博愛、平等、平和といった理想のために献身する友愛・互助団体である。

西洋文化の伝道師として

ダラスは横浜で貿易の仕事を続けていたが、1870(明治3年)に御雇(おやとい)外国人として大学南校(現在の東京大学)に教師として招聘された。御雇外国人とは、幕末以降明治初期に「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された欧米人のことである。ダラスの他に有名な来日者は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や札幌農学校(現北大)のW・S・クラークがいた。彼らは、政府首脳の月俸が数百円の時代、数百円から千円を越えた者もいた。しかし確かに高報酬は魅力であったが、ダラスの場合は貿易の仕事よりも、自国の文化を日本の青年に広く広めたいという志が彼を動かした。

攘夷の傷を負っての旅立ち

この時期はまだ攘夷思想が残っており、ダラスにもこの年11月23日凶刃(きょうじん)が襲う。大学南校教師に赴任したばかりのダラスと同僚のリングの2人は、神田鍋町の縁日を見物中に背後から日本人の青年によって斬りつけられるという事件が起き重症を負った。怪我の治療のため前職を解任された傷心のダラスは、翌1871年10月に、米沢県知事上杉茂憲公の招聘で、米沢興譲館洋学舎(翌年外国語学校に改名)に教師として赴任することになった。彼の月給は、現在の貨幣価値で約300万円であった。この報酬を見ても、いかに米沢が学問に力を注いだかが伺われる。これらの教育費は県費と上杉家の寄付金によって維持されたのである。

興譲館のクラーク博士

ダラスの祖国は、立憲君主制でありながら主権在民の国家であったが、彼は興譲館に赴任し、初めて上杉鷹山の伝国の辞に代表される思想に触れ時、いたく感動したという。そしてこの30才の青年教師は、同じ敷地内に宿舎を構え、英語は元より仏語、数学、そして自ら貿易商として学んだ実践経済学も教えた。また英国の風俗慣習、生活様式の数々を教え、サッカーや走り高飛び、器械体操といった近代スポーツも紹介したという。彼は廉潔の人で礼譲を重んじ、学生に多大の感化を与え、その門下からは日本の為に貢献した幾多の人物を出した。まさに札幌農学校のクラーク博士のような存在であったのだ。そして在任中には、英語の発音に関する著書『英音論』を執筆し、「米沢方言」と「置賜県収録」の2つの論文を発表して米沢を広く海外に紹介した功績は大きい。

ダラスの恋と食育

そういうエネルギッシュな青年だから、恋もした。「ゆき」という女性で、女の子までもうけている。

閑話休題、ご存じの通り日本では、675年の天武天皇が仏教の教えに従い摂政禁断の詔(みことのり)を発令して以来、肉食禁忌(きんき)は、長く日本人の食生活を縛っていたが、明治元年の神仏分離令の公布により、肉食が解禁されると肉食は欧米文化に欠かせないものになったのである。なんといっても肉食の普及に大きく頁献したのは、福沢諭吉などの知識人による肉食の啓蒙である。その特徴は、文化的、風俗的な料理や食習慣よりは、むしろ実質的な栄養面が強調されたのである。福沢は「日本人にとって肉は薬である。」と説いている。ダラスもまた然り、欧米の肉食の薬学的効果や栄養学まで熱弁を振るい、「肉食のすすめ」なる講義も行った。

米沢牛との出会い

さてそのダラスが日本人の女性より恋焦がれたのが牛肉である。この頃日本でもようやく牛肉を食べる食文化が生まれ始め、1862年横浜で「伊勢熊」が日本初の牛鍋屋を開業した。今も現存する牛鍋屋「太田縄のれん」の創業者、高橋音吉も牛肉の串焼の屋台を始めたのもこの時期であった。彼の事務所が、この2店がある住吉町界隈まで歩いて20分もかからぬ場所にあったことから、おそらく彼も牛鍋や牛串焼きに舌鼓を打ったと思われる。

横浜で食べた牛鍋が忘れられなかったのだろう、なんと彼は興譲館に着任するにあたって、横浜から「万吉」という名の専用のコックを米沢まで連れて来たのである。そして現在の飯豊町添川の生産者から牛を譲り受け、万吉に料理をさせ、大いに気に入って食し、時には同僚の木邨道之、宮内赫介、滝川喜六や、学生らも招いて振る舞ったという。

牛を引き連れての離任

ダラスは、1785年(明治8年)任期が満了し横浜に帰ることになったが、一緒に暮らしていた、ゆき母子は米沢に残したのである。そして彼女と万吉を結婚させ、生活費のほかに牛肉店を開業する資金まで与え、「牛萬」という屋号の店を構えさせた。このように自分が愛した母子は置いていったが、米沢の地で覚えた牛肉の味が忘れられず、なんと牛一頭を生きたままお土産にしたのである。そしてこの牛肉を横浜の仲間にご馳走したところ、彼らはその美味しさに言葉を失ったという。当時横浜では、近畿地方が和牛の産地であり生産量も多いことから、神戸から横浜へ輸送させ供給を満たしていた。これが神戸牛の始まりであったが、完全に置賜産の牛肉が神戸牛を凌駕していたのでる。その後まもなく飯豊町の家畜商が、ダラスの紹介で横浜の牛肉商との契約を成立させ、定期的に米沢牛が陸送され、一躍牛肉の本場で名を馳せることになった。まさにダラスは米沢牛の恩人といっても過言ではないのである。

遠き大陸から思いを馳せて

その後ダラスは横浜で過ごし、1885年(明治18年)再び上海に戻り渡り石炭、銅などの貿易に携わった。しかし当時の中国では、牛肉といえば水牛がほとんどで、日本のような黒毛和牛は食することができなかったという。そして1894年病を患い53才の生涯を閉じる。今際の際にあっては、米沢に残した「ゆき」母子と、驚愕の美味、米沢牛に思いを馳せたことだろう・・・

<鯉太郎の独り言>
なんと愛する女性と子供より、米沢牛を選ぶとは!それにしてもダラスって、調べれば調べるほど不思議な人物なんだよね。19才の貿易商、鉱物学・語学の天才、そして稀代の食いしん坊・・・

<タスクフーズ ニュースレター 第27号 おいたま先人顕彰シリーズより>
敬称略、参考文献:尾崎茂一著『米沢牛肉物語』、ちくま学芸文庫「明治事物起源」、「米沢市史」
総合図書館「東京大学五十年史史料」、人文書院「食の歴史人類学」

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